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なぜ、この本を選んだか?
この本を買ったのは2006年であり、今まで読んでいなかった。この本の出版は昭和45年。
古本で買ったときの詳細な理由は忘れたけれど、恐らく絵描きとしての渡辺崋山と鳥居耀蔵との関係に興味をそそられたのではなかったかと思う。
圧倒的な権力を前にして自分の正義を主張する事の意味は、歴史的にはあるのだろうけれど、個の人生から考えた場合、そこに規範が形成されていなければ、もっと楽に生きる事が出来たろうにと思う。それは、なにも渡辺崋山に限ったことではないのだけれど。
概要
「蛮社」とは何なのか?
蛮社とは「蛮学社中」の略語で蛮学=西洋学術=を修めた者の仲間という意味
とネットで解説されているが、
南蛮あるいは蛮は、四夷のひとつであり、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。
日本でも当初は同様の意味で用いられていたが、15世紀にヨーロッパ人との南蛮貿易が始まって以降は、主にヨーロッパや東南アジアの文物を指す語となった。
とあり、洋学を指しているようである。
渡辺崋山を中心に自決までの動きをまとめてみると
寛政5年9月16日(1793)-天保12年10月11日(1841)
享年49歳
勝海舟が生まれるのが文政6年1月30日(1823)なので、約30歳年超である。
藩財政の逼迫
崋山の蛮社の獄への流れを追ってみると
- 父親が田原藩で役職を得ていた
- 父親が病気で藩財政も苦しかったので禄を減じられた
- そのため生活がかなり苦しかった
- 得意の絵を生活の足しにした
- 人との繋がりから谷文晁を師とする
- そのことから知識人への輪が広がる
- 同時に蘭学への人脈も出来る
- 家老になり各種の改革を行う
- 高野長英などを招聘
- 農政改革などを行う
- 座長となって蘭学を学ぶ
ここが一つのポイント
ただでさえ逼迫していた藩財政であったが、相次ぐ飢饉でほとんど破綻していた。にもかかわらず、藩主は女遊びなどにうつつを抜かし、ほとほと政治に嫌気をさしていた。
藩政を改革しようとしても、反対勢力などの抵抗もあって、じつは思うような成果をなかなか上げられない。
現実には天保の飢饉でひとりも餓死者を出さなかったことで、水野忠邦から褒められている。
大塩平八郎の乱
しかし、同じ頃、大塩平八郎の乱が起こり、崋山の友人との繋がりに大塩がいたことなどから全く無い脈絡を探られた。
ここも一つのポイント
モリソン号の打ち払い
モリソン号が漂流していた日本人を届けにきたとき打ち払いをしている。この対応を崋山達は批判した。
小笠原諸島の占拠
また、小笠原諸島(当時の日本では、ただの無人島という認識)をイギリスに取られそうになり調査をする必要を感じた崋山達は、イギリスが動く前に無人島をとりあえず占拠することが海防上必要であると考え行動に出ようとするが、それも蘭学を弾圧するための材料に使われた。
浦賀の測量
決定的なポイントは、浦賀を測量するに当たって水野忠邦は開明派の江川英竜と保守派の鳥居耀蔵を組ませた。江川は崋山に相談して、当時では最高のレベルで測量をし、結果として鳥居耀蔵一派に恥をかかせ恨みを買うこととなる。
鳥居耀蔵は、直臣でもある江川を直接攻撃することを避けて、崋山・長英を葬ろうと考えた。
このことが蛮社の獄の大きな起点となった。
高野長英の認識
高野長英の認識では、イギリスは北海道より北にある国で、人口もさして多いわけでも国土が広いわけでもないのに、これだけ国が栄えているのは栄達の君がいたことと、国民の勤勉によると考えた。国家は、このようにあらねばならないという認識があった。
そのためには人材を育成すること、日本自身が抜本的に改造されなければならないと述べてもいる。
さらに、当時のフランスとドイツは仲が良かったがフランスにナポレオンという天才が出現するや、戦争が勃発した。このように世の中は変動しており、我が国だけが世界から孤立して一切の変動から離れていることは困難である。
世界の変動に対応する能力は、今の幕藩体制では無理である。
このような認識を持っていた。
同様に崋山も、西洋は単に物質的にすぐれているだけではなく道徳や芸術も等しくすぐれていることを認識している。
シーボルト事件
もう一つのポイントにシーボルト事件がある。蛮社グループがシーボルト事件との脈絡で、弾圧の対象となった事も考えられる。これが伏線となってバイアスがかかった。
崋山の罪状
- 蛮学盲信
- 無人島渡航計画
- 大塩の乱への通謀
このことは花井虎一というスパイによるでっち上げに過ぎなかった。
結局、水野政権内における鳥居派と江川派の、あるいは開明派と守旧派の政策争いを背景に、崋山は標的とされてしまった感がある。
結局、北町奉行所における取り調べの過程で、花井のでっち上げであることが明るみに出てきたため、まず、幕臣への取り調べは全員取りやめとなったが、幕府も鳴り物入りで逮捕したため、崋山の罪状を、上記3項目から幕府への批判に切り替えた。
ただし、実際に蛮社の獄として崋山始め蛮社グループに連なると思われる人々の捕縛拘束が始まると、崋山の救済に動く力よりは、知識人の権力に対する萎縮の方が大きかった。
罪状は蟄居だった
結局、崋山は在所蟄居となり田原藩に送られたが、
- 生活の困窮
- 反崋山派の策動
- 藩主への問責の風説
などの要因から天保12年(1841)自刃した。享年49歳。
遺書
一筆啓上仕候私事老母優養仕度より誤て半香義會に感三月分迄認跡は二半に相成置候處追々此節風聞無實之事多必災至り可申候然る上は主人安危にもかゝはり候間今晩自殺仕候右私御政事をも批評致しながら不愼の義と申所落可申必竟惰慢不自顧より言行一致不仕之災無相違候是天に非自取に無相違候然ば今日の勢にては祖母始妻子非常之困苦は勿論主人定て一通には相濟申まじくや然れば右の通相定め候定て天下物笑ひ惡評も鼎沸可仕尊兄厚御交りに候とも先々御忍可被下候數年之後一變も仕候はゞ可悲人も可有之や極秘永訣如此候頓首拜具
十月十日
ゝ
椿山老兄 御手紙等は皆仕舞申候
画会開催に対する責任
生活のために絵を売るために画会を開いたことが不謹慎であると言うことになり、ひいては藩主に厄災がかかるという風評を反対派が流したことに対し、藩主に責任が及ばないように自害することとなった。
つまり、自殺へ追い込んだ直接の原因は、幕府内の開明派と保守派の構想でもなく、鳥居耀蔵の陰謀でもなく、結局は地元田原藩の反渡辺崋山勢力の攻撃によるものであった。
崋山の自害
自害は、腹を一文字に斬り、引回して腑幕まで達せしめ衣襟(いきん)の前を合わせて喉を頂までさし貫き、その脇差しをかたわらにおいて体を右へ伏して死んでいた。
高野長英の殺害
高野長英は、弘化元年(1844)牢に放火し脱獄、嘉永3年(1850)奉行所の捕吏に急襲され殺害された。
ちなみに現在の表参道駅近くの青山通りに面した場所であった。
蛮社の獄が起きたのが天保10年(1839)であり、勝海舟が、その頃16歳、坂本龍馬が、まだ3歳であった。
意見または考察
人は自分の価値観から世界を見て居るわけで、その意味では全ては自分の主観において認識されていることとなる。
だからといって、自分の行いや考えは、すべからく自らの意志において決しているのかというと、全くそのようなわけではなく、時代とか家族とか出会いとか出来事とかから大きな影響を受けながら自らの規範が形成され、その規範に従うことで自己が自己たり得る部分も少なからずある。
渡辺崋山は生活が困窮し、生活の足しに絵を描いて売った。その絵があまりに見事であったことから谷文晁などへ繋がる。谷文晁から当時の文化人へ繋がり、先端の知識人達から支援ももらう代わりに影響も受ける。
崋山の家柄として藩政に関与せざるを得ず、知識人達からの影響もあって大幅な藩政改革に手を付ける。
このことから藩内の反対派を形成することとなる。
また、時代としてモリソン号の打ち払いや小笠原の確保など鎖国を続けることが出来ない外部要因があって、これは単に認識の問題でしかなかったが、このことに関与することから幕府に対する批判となった。
また、幕府内では開明派の江川英竜と旧主派の鳥居耀蔵の対立があり浦賀の測量において対立を深めたことが蛮社の獄に繋がる。
結局は蟄居であったが、ここでまた生活のために絵を描き販売することから反対派から批判され、藩主に迷惑がかかるという風評を流され、そのことを苦にして自害せざるを得なくなった。
數年之後一變も仕候はゞ可悲人も可有之や
「数年後に世の中が一変したら、崋山の死を悲しむ人も出てくるかもしれない」という遺書の文言には崋山のみならず夜明け前の日本の犠牲になった多くの人々にも共通する言葉でもある。
夜明けは自害から27年後の明治元年(1868)までかかる。つまり、崋山の名誉回復が明治元年にやっと墓碑の許可が政府から下ったわけで、幕府が政権を担っている間には、黙殺され続けた。
さて、我が国は平成になって戦後初めて国民の選択として政権交代を達成したわけであるが、どれだけの犠牲を払い、そして手にしたものは何であったのかは、現在も進行中である。
少なくとも言えることは、政権交代おいて大方の人は産みの苦しみという犠牲を払ってはいない。
渡辺崋山

渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、江戸時代後期の画家であり、三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)、諱は定静(さだやす)。号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。号は他にも全楽堂、寓画堂など。
誕生と苦難の幼少時代
江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区の三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩の中でも上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通は養子であったために15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、加えて折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちであったために医薬に多くの費用がかかったこともあり、幼少期は極端な貧窮の中に送った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。このありさまは、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになった。のちに谷文晁(たにぶんちょう)に入門し、絵の才能は大きく花開くこととなり、20代半ばには画家として著名となり、生活にも苦労せずにすむようになった。一方で学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学んだ。また、佐藤信淵からは農学を学んだ。
田原藩士として
藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。こういった生い立ちが崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目であった。文政6年(1823年)、田原藩の和田氏の娘・たかと結婚し、同8年(1825年)には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を引き継いだ(父の藩内の出世に合わせて、禄は復帰していた)。同9年には取次役となった。
ところが、翌10年に藩主康明は28歳の若さで病死。藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から持参金つき養子を迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。結局藩上層部の意思がとおって養子・康直が藩主となり、崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とすることを承諾させている。また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、こののちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望する際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の明治14年(1881年)に『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残している。
天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわなかった。
こうして崋山は、藩政改革に尽力する。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な渥美半島に着目してサトウキビ栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、ハゼ・コウゾの栽培や蠟絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている。
天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。
蘭学にて大施主
また、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合った。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。その後この学問サークルはモリソン号事件とともにさらに広がりを見せ、蘭学者の長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などで深く議論するようになった。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などの助言を受けている。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある藤田東湖は、「蘭学にて大施主」と呼んでいる。崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちのリーダー的存在であるとみなしての呼び名である。
鳥居耀蔵
寛政8年(1796年)11月24日、林述斎(林衡)の三男(四男説もある)として生まれる。生母は側室であった。実父は大学頭を務めた幕府儒者の林述斎。父方の祖父の松平乗薀は美濃岩村藩の第3代藩主である。旗本・鳥居成純の長女・登与の婿として養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。25歳のとき、鳥居成純の養子となって家督を継ぎ、2,500石を食む身分となる。そして将軍・徳川家斉の側近として仕えた。
天保の改革 [編集]やがて家斉が隠居して徳川家慶が将軍となり、老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。渋川敬直、後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれる。
天保9年(1838年)、江戸湾測量を巡って洋学者の江川英龍と対立する。このときの遺恨に生来の保守的な思考も加わって洋学者を嫌悪するようになり、翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら洋学者を弾圧する遠因となる。
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