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東京遷都
「東京遷都」という歴史上の言葉がない。その理由は7月に江戸を東京に改め、9月に明治に改元し明治2年に首都を京都から東京に移した。首都の移転と遷都は違うのだろうか。都を改めるという表現として「奠都(てんと)」という言葉がある。官選の歴史書でも「奠都」が使われている。
なぜ、このようになっているかというと、遷都については正式に政府からの声明も天皇からの詔もなかったのである。
最近でも大阪府の橋本知事が首都機能の分散について言及しているが、皇居については触れられていない。
首都に皇居は不可欠なのか、それとも国会があるところを首都というのかについても明確な定義がなされていない。
ちなみにwikiを見てみると、
「首」はかしら(頭)くび、こうべ、かみ(上位:首座)、かなめ(要)、かしら(魁帥)、おさ(長)などの意。
「都」はみやこ、天子の宮城のある首府をあらわす。
周代の行政上の区画では君主の宗廟のある場所を都(ト・ツ)といい、無い場所を邑(イウ)と呼んだ。
「都」は寄せ合わせ残らず集める意。
曹丕文「頃撰二遺文、一都爲二一集」。
「京」はみやこ(帝都)切り立った高い場所、丘、高い、多い、くじら(鯨=京)などの意。
「京師」は天子の居ますみやこ、京は大、師は衆、大衆のおる所の意、春秋成十三「公如京師」。
「京都」は晋の時代、景王の諱を避けて京師を京都としたことによる、魏志文帝紀「任城王薨於京都」。
みやこを首にたとえる成語には「首善之區」があり、漢書・儒林傳序に「故教化之行也,建首善自京師始」とある。
英語Capitalの語源はラテン語kaputであり印欧語の「頭」あるいは「ウシの頭」をあらわす。
Capitalは「資本」とも翻訳される。
Metropolisはギリシャ語で"mother city" の意(mētēr 「母」+pólis 「都市」)。
日本では京、洛などと表記され、幕末から戦前にかけては「帝都」、戦後は「首都」と呼称することが多い。
「帝都」の字句は幕末期の文書:船中八策に登場している。
また、「日本の首都」をwikiで調べてみると、凄く長いので全文を参照するわけにも行かない。
「日本では歴史上天皇による朝廷の下に、国際的には時に「日本国王」「日本国大君」とも称された征夷大将軍による幕府のような武家政権が存在したことや、東京と京都の両京制(東西両都)などの面から首都の議論があり、現在も法律上では「どの都市が首都であるか」という明確な定義がなされていないため、「首都は現在の首都圏にある東京である」という意見の他、「現在も京都と東京という2つの首都が並存している」「京都が正式な首都である」等、様々な首都論・首都認識がある。」
と言うことである。
「元来での日本の首都機能を有する都(みやこ)は有史以来、天皇の遷都宣言に基づき、天皇が御座し政治を行う地として遷都が行われてきた」
で、その前の議論として、では「首都」というのはいつから使われ出してきたのであろうか。
戦前は圧倒的に「帝都」であった。
江戸時代ではどうであったかというと事実上の首都は「江戸」であった。
18世紀に三都論が盛んになる。
京都=伝統・文化の都
大阪=経済の都
江戸=政治の都
このころは江戸を「東都」として認識していた。
広辞苑では
首都=中央政府がある場所
都=天皇がいるところ
江戸は「首都」ではあったが、「都」ではなかった。
日米修好通商条約
この関係が鮮明になってくるのが、1858(安政5)年の日米修好通商条約を巡って大きく変動して来るのである。
つまり、京都が実質的な首都になってくるのである。
前年の12月12日、ハリスと条約の交渉にあたっていた井上清直と岩瀬忠震は「開国の国是」を将軍、御三家、譜代大名、外様大名の衆議で決め、これを天皇が許可をして天下に布告するというような意見を老中に述べている。
《ポイント》
幕臣が、ハリスに対する時間稼ぎととして「国是」を持ち出したのだと思う
これは、恐らく時間稼ぎであったのだろうと思う。彼ら幕臣が真から天皇の勅許を求めるはずもないし、大名達の意見などが参考になるとも、衆議が一致するとも思っていたはずがない。
特に徳川斉昭や松平春獄のような悪質(低脳?)な大大名を相手にしていた幕臣として、「国是」と「勅許」が効き目があると考えたに違いない。
それは海防の手薄さや軍事力の彼我の違いを、はっきり認識させようと意図もあったに違いがない。
一橋慶喜を買いかぶっていたと思われる節もある。これは徳川斉昭を黙らせるのに有効に使える切り札であると考えたはずだし、慶喜を持ち出すことで春獄や島津斉彬も抱き込めると計算したと思う。
ところが時の老中であった堀田正睦以下、幕府の幕僚(岩瀬忠震含む)が京都に出向いても天皇や朝廷を抑えることが出来なかった。
つまり堀田正睦や岩瀬忠震らの幕臣達の朝廷工作が完全に失敗していたのが、これ以降のターニングポイントを生み出したと考えている。
《ポイント》
慶喜派の意見も尊重することで徳川斉昭を黙らせることができると考えたことと、朝廷は乗り込めば懐柔できると過信していた
井伊直弼登場
ここで立ちふさがるのが井伊直弼である。
岩瀬忠震ら幕僚らにとっても堀田なら懐柔できると読んでいたと思うが、ここに井伊直弼が立ちふさがることは計算外であったに違いない。
井伊直弼にすれば、御三家や大名や朝廷が政に口出しと権限を持たせることは、幕府の弱体化に繋がるという危機感を抱いた。
ここで一橋派は弾圧される。
これが1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけての「安政の大獄」である。
そして安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外の変で井伊直弼が倒れる。
《ポイント》
家定と同じく井伊直弼も、彼らのやり方では幕府の威信が落ちるという危機を非常に募らせる結果になった
破約攘夷
幕府は和宮と家茂の婚儀を画策する。
孝明天皇は条件として
1.公武合体
2.破約攘夷
幕府は破約攘夷に関しては大名に対しても海外に対しても公表することが出来なかった。破約攘夷に関しては実現する気もなかった。
長州藩の長井雅楽(時庸)が文久元年(1861年)頃に「航海遠略策」を提唱。
異人斬りに象徴される単純な外国人排斥である小攘夷や、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破約攘夷ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする「大攘夷」思想に通じる考えで、その精神自体は後の明治維新の富国強兵・殖産興業などにも影響を与えたとも言えるが、この時点においては実行手段の具体性に欠け、また急速な尊王攘夷運動の高まりもあって、大きな政治運動となる前に挫折したが、外交交渉を先送りできるという意味で幕府も朝廷も喜んだ。
そこで幕府は毛利慶親に内命を与える。
つまり、長州は朝廷と幕府から政治運動に対してお墨付きをもらったこととなり、幕末の大転換となる画期となってしまった。
それに刺激を受けて薩摩からも島津久光が上洛し、天皇が勅諚を出す。
禁中並公家諸法度(1615年)で天皇が政治に携わることを禁じて以来、あり得ないことが起き出した。
そんな背景から、長井雅楽の大攘夷論は下火になり、むしろ小攘夷論が盛んになり、そのことはすなわち幕府批判でもあったため、激しさを増してくる。
攘夷をさせるために家茂が江戸から呼ばれ、攘夷を約束させられ5月10日を攘夷の期日とする。
長州だけが5月10日にアメリカの商船を攻撃。撃破される。
このとき、見過ごした小倉藩に急進派の攻撃が向かい天皇の意向を無視して処分しようとした。
ここにいたって穏健派の大名が立ち上がり、孝明天皇自体も急進派に腹を立てていたため、急進派を京都から追放した。
《ポイント》
家茂が上洛させられ、しかも朝廷での席次が末席であった。その家茂に攘夷の期日を決めさせ、急進派公家と長州が攘夷を決行してしまった。そのことと、その反動として小倉藩を処分しようとまでしたことに穏健派も孝明天皇も腹を立てだした
王政復古
元治元年、将軍は再度上洛し、京都で国家の最高方針を議決しようと言うことになりつつあった。
しかし、孝明天皇自体は王政復古には不承知であった。
破約攘夷の実体として横浜鎖港で合意した。
孝明天皇の意向に諸侯も賛成し、合意に達するかに見えたが、慶喜が諸侯を飛ばして天皇と独断で約束したため諸侯は慶喜に裏切られることとなった。
慶喜としては諸侯が天皇・朝廷に接近しすぎることを嫌い、距離を置こうと思った。同時に天皇の気持ちを幕府に引きつけようとした。
諸侯は慶喜の豹変と裏切りに驚きあきれ会議に見切りを付けて帰国。
公武合体が成立できなかった。
このとき、家茂19歳、慶喜28歳。
禁門の変
1864年8月20日(元治元年7月19日)に前年に京都から追放された長州が会津が防衛する禁門で武力衝突する。
慶喜の活躍はめざましく孝明天皇は感謝する。後の鳥羽伏見での慶喜とは別人のような活躍であった。
《ポイント》
こともあろうか長州は禁門に砲撃を加え、ここに賊敵となる。そこで朝廷が幕府に長州征討を命じることとなるが、江戸時代を通じて幕府が朝廷から命じられることはなかった
一連の騒動の結果
一連の騒動の結果として、まず、朝廷にいた有力公家の多くが追放されてしまったこと。
政治の能力が低い上に政争を重ねて人材を失う結果となり、さらに能力を低下させてしまった。
つまり朝廷が政権を担当する能力は、およそなくなり幕府に依存するしかなかった。
ここにおいて京都における幕府の力が増大することになる。
つまり、政治の中心が京都にあった。禁門に砲撃した長州を朝廷が幕府に討伐することを命じる。
朝廷が幕府に大名の討伐を命じるということは徳川幕府始まって以来のことであった。
慶喜は、江戸の幕府に図ることなく諸大名に指示を発する。
《ポイント》
結果として京都における幕府の力が大きくなるが、慶喜は江戸幕府に諮ることなく諸大名に長州征討を命じる
第一次長州征伐
ここで反対を唱えるのが薩摩の大久保利通である。
朝廷と幕府と諸藩が十分に話し合うべきであることと、ともかく国内戦争は避けるべきであるという論点であった。
同じく、高杉晋作も外乱より内乱を恐れるべきであると語っていたが、これが趨勢であった。
第一次長州征伐に対応して長州は謝罪と恭順を示した。
この時点の慶喜の対応がはっきりしないが江戸幕府は、長州藩処分にこだわり、さらに長州を追い込むこととなった。このことに関して高杉ら改革派が長州世論をまとめることとなり、「武備恭順」つまり、武備を備えながら恭順を示すという方針。
幕府老中の認識として征討群が出れば長州は恭順するという思惑は外れる。将軍が先頭に立てば諸藩も従うという思惑も外れる。
この状況を大久保は、このまま幕府老中の考えで日本を治めようとするなら清国と同じ道を歩むと認識した。逆を言えば、この先、幕府に従う藩が少なくなることを見越した。
《ポイント》
第一次征長で止めておけば良かった物を対面を保つためと、恐らく江戸老中は慶喜を好んでいなかったこともあって、第二次征長にこだわり、結果として第二次征長は見事に失敗をし、薩摩が幕府に離反する芽を作った。幕府の威光や掌握力などの政策実施能力を冷静に評価することも出来ずに体面と勢いだけで物事を進めようとする完全な失敗事例となった
米価
戦争が始まるわけだから当然のごとく、米価が上がる。2月に米価に比べて5月は67%も上昇したため、民衆が米屋を襲撃しだした。
大和の国の村役人が「何を間違えて戦争など始めたのか信じがたいことだ」と日記に書き、その後、幕府が負けたことで三歳の子供も長州が勝ったことを喜んでいる と書き残している。その理由は物価が下がるだろう事と結びつけていた。
つまり、ここが世論となっていく。
しかも、このタイミングで家茂が死に孝明天皇も死ぬ。かといって慶喜は素直に将軍にならない。松平慶永は、そうした慶喜を評して「ねじあげの酒飲み」と言っている。
四候会議-開港
破約攘夷も孝明天皇が死んだことで、骨抜きになり条約も勅許が出され、兵庫も開港となった。慶喜は幼い天皇なら何とでもなると考えており、有力4候と朝廷を翻弄し、自分の思うままにした。
その姿を伊達宗城は「朝廷軽侮はなはだしく言語に絶する」とまで記録している。
これを四候会議という。
盟約書-倒幕
四候会議の直後に京都にいる薩摩首脳が集まって、王政復古と幕府の廃止を決め、薩土および長州に打診する。
幕府を廃止して議会にするという決定であったが、そのことはすなわち「倒幕」を意味することであった。
こうした動きを察知して慶喜は大政奉還に出る。ここでいう「大政」とは元治元年の庶政委任の勅を意味し、将軍を辞めることは前提になっていない。これが10月14日で、その10日後の24日に将軍職の辞表を朝廷に提出する。
王政復古
12月9日、ここに王政が復古する。最高権力者は天皇となり、同時に政府は京都にあることとなる。
京都が都であり、首都となった。
ちなみに福沢諭吉は「首府」としており、明治になると「帝都」と呼ばれるようになる。
帝都とは皇居のある都のことであり、首都ではない。
帝都京都は、江戸から首都を取り戻して誕生したのである。と、同時に人々は「遷都」を画策し出すこととなった。
《ここまでのまとめ》
開国を迫られていたという外部要因は確かにあったが、通商条約を「国是」にしようとした幕府の高級官僚の思惑通りには事が運ばなかった事が発端である。そうした中で慶喜が頭で物事を自分の思惑の通りに進めようとしているが、彼には奢りがあり、混乱期のリーダーとしての器にかけていたことが、あまねく諸侯の反発を招いた。
幕末のあの時点で、どこの藩もほとんどが困窮していた上に消費が低下し市場経済も良くないところへ、意味もなく沽券に関わるとばかりに内乱を起こそうとした江戸幕府の感覚も人民の心を遠ざける結果となった。
これって、今の政治に似ていませんか?
新首都構想
幕臣・西周は公府を大阪に設置するという構想を策定した。
同じく、伊地知正治が「浪速へ遷都」と表現し、それが大久保利通の大阪遷都の土台になる。
慶応4年、薩摩首脳は真剣に大阪遷都を議論していた。
しかし、そのことはせっかく京都が名実ともに首都になったばかりで、大阪へ遷都するとは公表できることではなかった。
公家の中には薩摩が奸謀をめぐらして居るという批判もあった。
しかし、大阪城は鳥羽伏見戦争で火災になっており大阪城をそのまま皇居にすることが出来なかった。
遷都の大きな狙いは因循の腐臭が漂う朝廷から天皇を引き離すことを画策していた。
そこで大阪行幸が企画され、これは実現した。慶永には全く理解の出来ないこのことが伊達宗城にはよく理解されていた。
江戸遷都論
前島密(幕臣・開成所教授)から江戸遷都論がでる。
その理由は蝦夷地が開拓された後、江戸が帝国の中央ならん と言う主旨。
江戸は既に世界の大都市でもあったわけで、インフラも当時なりに整備もされていた。
これが慶応4年の江戸城開城10日ほど後のこと。
その後、ロシアとの関係を考えた上で江戸に遷都すべきというような意見も出だす。
つまり、江戸城を開城してからは大阪遷都から一気に江戸への遷都が活発化し出す。
江戸城を東京に
大木喬任と江藤新平の意見に「江戸城は東京と定め」「江戸をもって東京と定め候はば、東方の人民も甚だ安堵」「東西の京に鉄道」を作って天子さまが移動して経営するのがいいというような両都論であった。
行幸から遷都へ
実際には慶応4年に大阪へ行幸し、明治元年に東京へ行幸し、明治2年に東京へ再幸して、そのままとなったので、これが実質上の遷都となった。
鳥羽伏見の戦いは慶応4年1月3~6日に決着が付き1月28日には、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允、広沢真臣等が主唱し、天皇が二条城へ出向いて「親征」を発令した。
つまり、ここにおいて天皇を因循の腐臭漂う宮中の奥から引き出し、軍議を起こし、列藩に号令、天下の兵と軍隊を動かすという明治から昭和前半の天皇のあり方が決まった。
行幸を含め、こうした改革の意図は天皇自身の意識改革が意図されていた。
《ここまでのまとめ》
しかし、薩長の青年達が天皇のありかたと日本の将来を考えた上で、そのような配慮をしたとは思いがたく、結局、朝廷に巣食う公家達や、旧習から頭を切り換えられない列侯達の意識を変えるより、若い天皇に権威と権限を付けることで、速度をもった国家運営ができると考えていたのだろう。
東京の誕生
慶応4年6月19日、木戸孝允と大木喬任は、天皇から「江戸を東京とするから東下して見てこい」という勅書をもらっているが、天皇にそのような意見があるはずもなく、新政府の考えを天皇の名を使って発布している。
彼等が東下して大村益次郎や大久保利通らと協議した結果、
江戸を東京と定める
天皇が東下する
ことはすんなり決まるが、東幸の発表は慎重を要した。
7月17日、詔書をもって天皇が大局的立場から江戸を統治する。ついて、江戸を東京とする(「因って自今江戸を称して東京とせん」)と発表した。
このことを補足すると、天皇は西も東も差別することなく全国民を一家として君臨してあげますよ ということで、国民はそのことをよく理解しなさい(「衆庶此意を体せよ」)と言う内容であって東幸については、この時点では触れていない。
ここで著者がこだわっているのは、江戸を東京と改称したのではなく、江戸を東京と定めた。江戸という空間に東京を設置した ということ。
ちなみに勝海舟は「主上、東府へ時々臨幸これあるべく、故に東京と称すべく云々」と書いており、時々天皇がくるから「東の京」と称したと解釈している。
東京行幸
8月に入ると、天皇の東京行幸の検討が具体化するが、慶永らの守旧派が障害となりつつあったが、三条実美は「京都よりも日本の将来にとっては東京を重視するべき」であると考えるようになっていた。
「政府は東京に御移し、東西賓主を位を転ぜられ候方、御長策と存じ候」
つまり帝都を京都から東京に移すという意見であった。
その点、京都に対しては名門の三条より岩倉のほうが思い入れが強かった。
明治という元号
東京への行幸もやっと決まり、明治という元号は候補から天皇が籤で決め9月8日に改元。
9月20日東京行幸に出る。費用は京阪の富商が負担(1万1千三百両)。
天皇の行幸は近世では後水尾天皇が二条城へ、孝明天皇が賀茂社と石清水八幡宮の行幸くらいしかなかった。
大久保や木戸、三条や岩倉は国民に見える天皇が、国家のシンボルになると痛感していた。
10月13日、天皇が東京に着き、この日、江戸城を東京城とし同時に皇居とした。
11月には東京行幸のお祝いとして東京市民に酒2990樽、するめ1700把が配られた。
《ここまでのまとめ》
明治という元号は天皇が籤で決めた。
版籍奉還
明治2年4月中旬に全ての知事と政府直轄府県知事に上京を命じる。
会議の目的は版籍奉還であった。木戸は遷都を機に版籍奉還を実現しようとしていた。つまり、木戸にとって遷都は国家体制の大改革であった。
この会議に合わせて天皇は再幸する。政府首脳は、これで遷都としようと思っていた。つまり、京都には帰らない。行き途中に伊勢神宮に立ち寄るが、天皇の親拝はこれが最初のことであった。
明治2年3月28日、天皇は東京城に入ると「皇城」と呼ぶとした。この皇城は、明治5年に火災で全焼し、明治21年に新宮殿が落成。これを「宮城」と呼ぶ。昭和23年の敗戦後に「皇居」と称されようになった。
著者は実質的な遷都を明治2年3月28日としたいと述べている。
遷都の発令
遷都の発令は今に至るまで行われていない。その理由は、明治2年当時は、まだ、民心が落ち着いていなかった。そこに遷都を発令すると社会的混乱が起こる可能性が否定できなかった。
しかし、政府首脳にとっては、遷都という形式はどうでもよく、天皇と朝廷の改革をすることが重要だったのであり、その目的は逐次達成されだしていた。
《ここまでのまとめ》
遷都という言葉をあえて使わなかった理由を推測してみると、天皇の役割が全く異なっている。少なくとも江戸時代の天皇や朝廷は政治を直接司らなかった。政治は江戸で幕府が行っていた。その江戸に天皇が来ると言うことで東の京とし、政治の場所に天皇が来たのだから遷都というよりは「奠都」が本当の姿であると言える。
徳川は静岡に移封になり、諸家の武士は離散し、それに合わせて武家を相手にしていた商人も店を閉じ、明治2年の人口は50万3千700人であった。
明治2年9月24日、皇后が東京に行くこととなったが、この時点でも政府首脳は遷都と決して言わなかった。
明治6年には紫宸殿、清涼殿を使った博覧会が催された。天皇の神格化が始まるのは明治20年頃からであるという。
西京
明治21年、皇室典範の審議において井上毅は、京都を「西京」と呼称し訂正を求められたとき、「西京を京都とするなら東京は江戸となってしまう」として反論している。
終わりに
明治20年頃から急速に神格化した天皇が、昭和20年の敗戦により自らの存在を「神話と伝説によるものではない」という宣言をしているが、神の末裔であることを否定しているわけではない。
首都に、この天皇もしくは彼らの住まいが不可欠なのかは、今後の検討となる。
東京に住む人々の多くは、東京の礎を徳川家康に求めるだろう。
明治期に新政府の首脳となった人々は、天皇を朝廷から引き出し、政治に関わらせ神格化することで、廃藩置県、軍の整備、徴兵、その後の戦争などを国民意識と共にコントロールしてきた。
その大きな転換は「明治」という元号と「東京」という首都においてなされた。
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